灰色の薄暗い空間に、アッテンボローは立ち尽くしていた。
と言っても、部屋のように壁が見える訳ではなく、灰色のひんやりとした空気に取り囲まれているのだ。例えて言えば、雨が降り出す前の厚い雲の中に包み込まれたような感じだろうか。視界も僅かに2メートルぐらいしか利かない。
裏庭の桜の樹の下で寝転がっていたはずなのに、どうしてこんな場所に居るのだろうと考えて、
ああ、俺は眠ってしまったんだ、これは夢だと思い至り、ほっと胸を撫で下ろした。

足元を確かめようと視線を落とし、初めて気付く。
黒いブーツに白いスラックス。士官学校の制服じゃない!
更に全身を見回した。
ブルーのシャツに赤いネクタイ、黒いジャケット、そして白いスカーフ―――同盟軍の軍服!?
これは、自分の未来の姿なのか?
驚きが一旦治まると、持ち前の好奇心が首を擡げる。それなら……と、襟を引っ張り階級章を見ようとした自分に、苦笑った。
望んで軍人になる訳ではない。軍人として栄達するつもりも無い。それにこれは夢なのだから。
いずれにしても何の意味も無いことだ。

じっと立ち尽くしているのも落ち着かなくて、アッテンボローは一歩一歩踏みしめるように歩き出した。コツコツと響く靴音から推測するに、靄のような周囲とは違って足元には硬質の床があるようだ。
なぜ、そちらを向いて歩き出したのかは解らない。ただ、その先に何かがあるような気がした。



変化の無い景色の中は、時間と距離の感覚を失わせる。
自分では随分歩いた気になっているが、実際は大した距離じゃないのかも知れない。ただ、最初の直感が正しかったと証明するように、辺りは少しずつ明るさを増し、視界もかなり広がってきていた。このまま進めば、やがて靄が晴れて、ここが何処なのか解るかも知れない。そう思った矢先、床に座っている人影を見つけて、あっと声を上げた。
それが、見慣れた人物の見慣れない姿だと認識した瞬間、アッテンボローは彼の名を呼んでいた。

「ヤン先輩!」

大声で呼んだつもりなのに、その声はまるで靄に吸い込まれたように、自分の耳にも聞こえなかった。
自分と同じように軍服を着たヤンは、右ひざを立て左足を前に投げ出し、何かに凭れるようにして床に座り込んでいた。力なく落とされた腕、項垂れて俯いたその姿から、表情は読み取れないものの眠っているのだろうと思う。だが、何故かヤンの周囲にも、白いスラックスの上にも、夥しいほどの紅い色彩が広がっていた。

何かに急かされるように、小走りに駆け寄る。
近寄って初めて、ヤンが凭れているのは太い桜の幹だと判った。
長めの黒髪に縁取られた頬は抜けるように青白く、瞼をしっかりと閉じて、まるで蝋人形のように動かない。
彼の身体に手を掛け、揺さぶりながら声をかけようとして、アッテンボローは喉の奥でくぐもった悲鳴を上げた。


手のひらを紅く染めたもの―――その正体は、紅い桜の花びらだった。


震える手のひらに、更にはらはらと紅い花びらが舞い落ちる。ヤンが凭れている樹を見上げると、薄暗い空間に不気味なほどに浮かび上がる満開の紅い桜があった。

どうして……どうして桜の花が、こんなに紅いんだ――――――!?

得体の知れない恐怖に心臓を鷲掴みにされ、涙が込み上げてくる。頬を伝うそれを拭うことも忘れて、俯いたままただひたすらにヤンの名を呼んだ。

「先輩、先輩、……ヤン先輩!」


*  *  *  *  *  *  *  *


温かな手が髪を撫でる感触に驚いて顔を上げると、首をかしげながら心配そうに自分を覗き込むヤンの姿があった。

「どうしたんだい、アッテンボロー?」
「せん……ぱい?」
「なんで泣いてるんだい?」
「先輩、大丈夫なの!?どこか……何か…具合が悪いとか……?」
「わたしは平気だよ?ちょっと転寝してしまったけどね」

少し照れくさそうないつもの笑顔に安堵して辺りを見回すと、そこは何時の間にか明るい陽射しが降り注ぐ公園のような場所に変わっていた。
灰色の靄は跡形も無く消え失せ、床は緑の芝生に変わり、ヤンの頭上に枝を広げた桜は薄桃色の美しい花をいっぱいに咲かせている。
自分の見たものが何だったのかも解らないまま、ただヤンの笑顔が嬉しくて、アッテンボローはまたもや溢れ出す涙を、どうにも止めることが出来なかった。
自分にしがみ付いて子供のように泣き始めた後輩を、ヤンは柔らかく受け止める。

「おまえ……きっと夢を見たんだよ」

背中を撫でながらよしよしとあやしてくれるヤンの声が優しくて、アッテンボローは喉を詰まらせながらも繰り返した。


「ヤン、せ……ぱい、ヤ、ンせんぱ…い……」



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