そこに在るのは、目に見えない不可思議の扉。
舞い落ちる花びらの中、音も無く開いて、
過去と未来が密やかに手を取り合う。
桜花の下で見る夢は―――

   桜花の褥(はなのしとね


       

 「あれ? おかしいなぁ……」
―――絶対ここにいると思ったのに。

アッテンボローは酷く落胆して大きな溜息を吐いた。
うららかに晴れた日の放課後。今日は風もなく特別に暖かい。
金曜日。最後の授業を終えると、候補生達は早くも開放感に浸り、いそいそと週末の予定へ向かって動き出す。
帰省する者、仲間と街へ繰り出す者、恋人に逢いに行く者。
勢い、自習室や図書館などは利用する者もなく閑散とする。ヤンを探して今しがた図書館を覗いて来たのだが、そこに彼の姿はなかった。
だから、きっとここだと思ったのに……。

普段ならそれなりに人の姿があるこの裏庭にも、他に人影はなかった。
ただ、今を盛りと咲き誇る見事なまでの桜が、春の陽射しの中、凛として佇んでいた。
老木と呼べそうな太くごつごつとした幹が大地に固く根を張り、枝をこれ以上ないほど大きく広げている。夏には濃い緑の葉を茂らせ心地良い木陰を提供してくれるその枝が、今は殆ど見えないほどに薄桃色の花で覆われていた。

今夜はヤンの誕生日を祝うために、3人で街へ繰り出す約束をしている。
それぞれが相手を探して行き違いになったのだろう。それなら動かない方が得策だと考えて、アッテンボローは幹に背中を凭せ掛け柔らかな下草に腰を下ろした。

そのまま首を反らして桜の枝を仰ぎ見る。
ひしめき合う花の隙間から水色の空が覗いている。霞むような色彩は、春ならではの柔らかさ。
時折ひらひらと舞い落ちてくる花びらを受け止めると、意外なほど白っぽい事に気付く。花を桃色に見せているのは、薄紅色のガクと、無数の花が身を寄せ合うように咲く所為なのだろう。
普段は花になど無関心でも、桜の季節になると人は皆いそいそと花見に出かける。単に宴会をする口実のように思っていたが、こうして花の下にいると不思議な空気に包まれるのを感じる。
年月を経た自然だけが醸し出す、独特の空間。パワー。目に見えない波動のようなもの。
それらが厳かに伝わってきて、人間も自然の一部であることを思い出させるのかも知れない。

俄かに浮かんだのは、子供の頃に聞いた祖母の話。
はるか昔、人は自然と共存していた。自然の厳しさも与えてくれる恵みも知り、畏れ敬ってきたのだと。海、山、太陽、果ては大岩や長い年月を経た樹木にまで。

―――神様や精霊が宿ったり、人の知恵の及ばない不思議なことが起こったりするんだよ―――

そんな風に締めくくられる祖母の話を、おっかなびっくり聞いたものだった。
この桜にも、神様なり精霊なりが宿っていてもおかしくないな、と……ふとそんな気がした。

少し首が痛くなってきて、アッテンボローは組んだ手を枕代わりにゴロリと仰向けに寝転んだ。
視界が僅かばかり広がって、水色の空をふうわりと雲が流れていくのが見える。上空は意外に風があるらしい。ここは陽射しに溢れぽかぽかと暖かく、時折そよ風が吹くだけなのに。
桜の花が揺れて、その度にさわさわと囁くような音が聞こえる。心地良さに瞼を閉じて花びらの会話に耳を傾けるうち、いつしかアッテンボローは眠りの腕に抱かれていた。



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