特別な日 1 ヤンがその声に呼び止められたのは金曜日の放課後、図書館に向かう渡り廊下を歩いていた時のことだった。顔を確かめるまでもなく誰だか判るようになってしまった、このひと月ほどですっかり耳に馴染んだ声。呼ばれるたびに少し面映いような擽ったいような気持ちになる―――ヤン先輩、と。 振り返った視線の先には予想通り、逆光の中から駆けて来る後輩の姿があった。 「やあ、アッテンボロー」 「……せんぱ……っ……これ…から…図書館…っすか…?」 「何をそんな慌てて……まあ落ち着けよ」 肩で息をしながら寸暇を惜しむように喋り出すアッテンボローを苦笑しながら宥める。クセのある髪を乱し、ふっくらしたそばかすの頬を紅潮させた少年のような姿。未だにやんちゃ坊主の域を脱していないようなこの後輩は、ヤンに実際以上の年の差となんとも言えない愛おしさを感じさせる。もしも弟がいたら、きっとこんな感じなのだろうと、ヤンは目を細めて微笑んだ。 「今日は当番なんだ」 シフトで割り当てられる放課後のカウンター業務は、ヤンが所属する図書委員の主な仕事。一刻を争うほどではないが、ゆっくりと立ち話をする余裕もない。ヤンはアッテンボローを促すようにそろそろと歩き始めた。 「当番ってそんなに頻繁に回ってくるんですか?」 「ん?いや、月に4〜5日程度だけど……なんでだい?」 「だって先輩、ほぼ毎日通ってるじゃないですか。区別つかないっすよ」 「はは……確かに」 「本を読む場所がカウンターの中か外か。それだけの違いでしょ?」 「まあね。で、おまえさんも行くのかい?それとも何か急用だったのか?」 「あ……その………」 途端に歯切れが悪くなった返答に、ヤンは立ち止まって彼の顔を見た。何度か口を開いたり閉じたりしながら言い澱むアッテンボローを、怪訝に思いながらも辛抱強く待って―――やがて彼が発したのは、言い辛そうにするのが不思議に思える問い掛けだった。 「あの……明後日の日曜日は、先輩何か予定がありますか?」 「ああ、えーっと………午後からちょっと用があるんだけど……」 「どうしたんだ? 何かあったのかい?」 「あ、いえ!いいんです。大したことじゃないんで……」 言い募ったのは、何か困ったことでも起きたのではないかと心配になったからだったが、アッテンボローはさも些細なことだと言うようにパタパタと手を振り、ぎこちない笑みを浮かべた。そうして歩き出すでもなく言葉を繋ぐでもなく、伏し目がちに佇んでいる。それが、大したことじゃないというセリフを否定しているようにヤンには思えた。 「言うだけ言ってみてくれないか? 断っといて聞くのは、その……申し訳ないけど、さ」 「そんな、申し訳ないなんて……。あの、実はですね……買い物に行こうと思ってまして。それで、その…先輩がもしお暇だったら、一緒に行ってもらえないかな、な〜んて……」 語尾を濁し頭を掻いて照れ笑いする後輩の姿は、ヤンにも馴染みのあるものだった。 「すまないね。次は付き合うからな」 どこか翳りは感じるものの、アッテンボローは先ほどとは格段の笑顔を見せる。つられたように頬を緩めたヤンが、もう一度「悪いね」と声をかけてアッテンボローの肩を叩くと、「それじゃ、俺はこれで」という意外にきっぱりした声が応えた。そうして安心したように図書館に向かったヤンを、アッテンボローはその背中が見えなくなるまで見送った。彼がそっと呟いた言葉は、晩秋の風に攫われてヤンの耳には届かなかった。 「今度の日曜日は俺の誕生日なんです。だから一緒に過ごしてもらえませんか?」 本当はそう頼みたかった。ストレートに言えたならどんなに良かっただろう。けれど知り合ってひと月にも満たない先輩に向かって、如何にも祝ってくれと言わんばかりの言葉は、流石に厚かましくて口に出せなかった。士官学校に入学して2ヶ月半、親元を離れて初めて迎える誕生日を、家族の代わりに祝って欲しかった訳じゃない。ささやかな節目の日を日常に埋もれさせてしまうことが、少し寂しかっただけだ。大好きな先輩と共に過ごせたらいい一日になると、そしたらどんなに嬉しいかと、本当にただそれだけの気持ちだった。だから考えた末に単なる外出に誘おうと思いついた時は、我ながら妙案だと思ったのだ。誕生日だと明かすことなく、望みを果たすことが出来る。それで十分だと思ったのだけれど……。 ヤンの用事が何なのかは知らない。訊ねてみたい欲求に駆られたけれど、何だか強請りがましいし、そこまで踏み込むのも憚られる。だけどもっと早く誘っていれば先に約束を取り付けられたかも知れないと思うと、ギリギリまで尋ねるのを迷っていた優柔不断な自分が情けなかった。だからと言って早々と誘っていたなら、それはそれで奇異な印象を与えたことだろうけれど。 つまるところ運がなかったということだ。 最初の出会いに縁を感じ、ヤンの人柄に触れるにつれてとても幸運だったと運命的なものさえ感じているアッテンボローにとっては、こんな些細な計画など、縁というものの目に見えない不思議な采配で難なく成功するような気がしていたのだ。根拠もなくそんな希望を持った自分の愚かさを苦々しく感じながら、アッテンボローは早くも暮れかかる空の下を寮棟に向かって歩き出した。子供じゃあるまいし、独りで気儘にのんびりするのもいいじゃないか、と言い聞かせながら。 そうしてアッテンボローは16歳の誕生日を、独り寮の自室で何をするでもなくゴロゴロと過ごした。昼過ぎに母と3人の姉たちが揃って祝いの電話をかけて来たが、母はともかく姉たちの姦しさに辟易して「電話はいいからプレゼントを寄越せ」と悪態を吐き、「欲しけりゃ帰省ぐらいしろ」と逆にやり返されて最悪の気分を味わった。門限近くになってデートから帰って来たルームメイトが、それとは知らずゲームセンターの戦利品の駄菓子をくれたのが、結局唯一の誕生日プレゼントになったのだった。 |
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