Tennessee Waltz


 ジェシカから電話があったのは九時すこし前だった。ヤンは休日にしては珍しく早めに朝食を終え、ユリアンの入れた紅茶を飲んでいた。
「ゆうべ、パーティだったんでしょう」
 回線の向こうでジェシカは言った。「だから掛けるのは今日にしたんだけど・・・こっちを出発するのはいつなの」
 受話器を置くとヤンは寝室に戻ってクローゼットを開けた。背後からユリアンの視線が追ってきた。適当に手を伸ばした、一時間前に着たばかりのシャツを脱いで、外行き用の白いシャツに着替えた。
 「お出かけですか」という問いに短く肯定の返事だけ残して、ヤンは官舎を後にした。



 待ち合わせには充分すぎるほど時間があった。ヤンは無人タクシーを拾い、行き先を入力した。一昨日、渋滞に遭った記憶が頭を掠めたが、公共墓地までは市街から遠くないから、多少道が混んでも待ち合わせの時間までには戻って来られるだろう。途中でフラワースタンドを見つけて花を買った。
 百万単位、億単位の戦死者が眠る公共墓地に、ヤンは公務以外で足を運んだことはなかった。あれは政治に利用される象徴にすぎない。魂がそこに眠っている兵士たちが何人いるだろうか。戦争が終わるたびにモニュメントが一つずつ増えるが、本当の眠りは故人のそれぞれの故郷にある。
 ジャン=ロベールもそうだった。ここにある墓石の下に彼の痕跡は何もない。肉体の還ってこなかった友人の遺品は家族が今もくらす彼の故郷に埋葬された。ヤンもアムリッツァ戦役が終わったあとでその地を訪ね、亡友の家族に面会してきた。
 初めて訪れた彼の白い墓碑に花を供えて、ヤンは胸に手を置いた。こんなに急でなければ、花より酒でも持ってくるんだった、と思う。周囲と同じシルエットの、刻まれた名前だけが違う墓碑の前で、ヤンは暫し佇立していた。人の足音に振り返った時、同時に名を呼ばれた。
「ヤン」
「ジェシカ」
 片手に花を持ち、ジャケットを羽織った彼女は、歩を速めるでもなくゆっくりと彼の元に向かってきた。
「考えることは同じなのね」
 ヤンが手向けた花の隣に新しい花が置かれる。
「君に会う前に、挨拶しておいた方がいい気がしてね」
「私もそう思ったのよ」
 落ち着いた色合いの彼女の衣服は墓地の風景にやわらかく溶け込んでいた。
 ここの墓には実は初めて来たとヤンは正直に告白した。
「確かに、どちらかというと好んで来る場所ではないわね」
「君はハイネセンに来てから、よく来るのか」
 自分が来た時に残っていた献花の残骸を思いながらヤンは尋ねた。
「そうね、よく来るわ」
 ジェシカは墓碑で埋め尽くされた丘と空の境界を見やるように視線を投げた。
「代議員になってからは、月に一度は来るようにしてるの。忘れないように、毎月祥月命日には」
「ああ・・・」
 まっすぐに向けられた彼女の視線が重かった。今日は3月20日だった。

「昨日も私たちは平和主義についての勉強会だったのよ。皆さんが喜び浮かれている時に」
 拾った無人タクシーの中で、ジェシカの最近の生活が話題になると、彼女は笑いながら言った。私たちとは彼女の所属する小さな政党のことだ。
「なってよかったと思ってるわ」
 負担はないのかと問うたヤンに、彼女は笑顔を向けた。
「世界が広がったもの。どうしても折り合えない人もいるけど」
「主戦派の嫌がらせかい?」
「それは予想のうちだわ。それよりも戦死者の遺族に言われることが多いの。死者の尊厳を踏みにじる、死者を利用してる、って。死んでしまった人は何も言えないわ、たしかに。だから静かに眠らせてやるべきだ、そういう意見もその通りだと思うの。私だけが遺族の代表じゃない。・・・それでも、私はやるべきだと思っている。死んだ人を代弁しようなんて思ってないわ、今は。わかるかしら、私の言いたいこと」
 ヤンは続きを促すために助手席に顔を向けた。
「最初はたしかに、彼の死が切欠だったの。でも私がしている行為は、生きている人のためだと今は思うようになったわ」
「・・・僕の意見を聞きたい?」
「現役の軍人さん、それも大将閣下に聞いちゃいけない質問かしらね」
「友人として言うよ。君は正しい。そして君の発見には僕も共感する」
 普段は避ける正義という言葉を、ヤンは敢えて口にした。彼女の行為が客観的に正しいのかどうか、それは今この場では問題ではない。ヤンは今ここでは有権者ではなく彼女の友人であり、信念を貫くということがどれだけ困難であるか理解しているつもりだった。
「お昼、どこへ行く?」
「あまり人の来ないところがいいね」
「そうね。近ければ dawn and dusk って言うんだけど」
「まだ在ったのか、あの店! 懐かしいなあ。でもあそこじゃ士官学校の生徒がうじゃうじゃいるだろう」
「今日は平日よ。今の時間は授業中だわ」
「今度来た時はそこにしよう。メニューも同じかな」
「どうかしら。私はあなたたちが卒業してから行ってないから」
「なんだ、そうなの」

 結局、二人はデリバリーを取ってジェシカの住居で一息つくことになった。
「ごめんなさい、私、本当はあなたに謝らなきゃならないの」
「何に?」
「事務所を休む理由に、大物支援者に会うことになったからって言い訳してきたの」
「・・・完全に間違いではないかもしれないけどね」
 小さな党とはいえ一年生議員には面倒が多いらしい。彼女は前年の補欠選挙では与党の議席を奪う形で当選したのだから、党にとっては功労者であるはずだが、それでも周囲への配慮が必要とされる。いや、そうした華々しい立場だからこそ、中から足を引っ張る者も出てくるのだろう。
「なんだかね、あなたとのつながりを期待する人が多くて五月蝿いのよ」
 ヤンとジャン=ロベール・ラップと三人の長年の親交を知る人はいなくても、慰霊祭でヤンがジェシカを連れ出した場面を記憶している人間は少なくない、と言われては苦笑いするしかなかった。
「でも私は今日は私用で会いたかったの。事務所の人には適当にごまかすから、あとは楽しい話をしましょう」
 届けられた昼食を受け取りにジェシカが座を外した僅かな間、ヤンはあらためて彼女の部屋を見渡した。部屋に案内された時から気づいていた、ジャン=ロベールの写真に近寄る。ひとつは彼も知っている、広報用に撮った少佐の階級章をつけた半身影で、もうひとつは平服でジェシカと並んだヤンの知らない情景だった。写真の乗ったピアノはレース織の布で覆われ、あとはソリビジョンとローテーブルだけの整然としてはいるが殺風景な居間だった。居間から見通せるキッチンの小さなテーブルには椅子が一脚だけ収まっていた。
 玄関扉の開く音がして、ヤンは何気ない顔で居間の中央へ戻った。
「お待たせ」
「いや・・・大丈夫かい」
 大荷物を抱えたジェシカにヤンは急いで駆け寄った。
「これ持ってくれる?」
 片手に下げていた大きな魔法瓶をジェシカはヤンの方へ寄越した。
「なに」
「紅茶を頼んだの。うちにはコーヒーしか置いてないから。あなたが来るとわかっていたら買っておいたんだけど」
「気を遣わなくてもよかったのに」
「いいのよ、私もたまには違うものを飲みたかったから」
 書斎から椅子を持ってくる、と言ってジェシカは出て行った。

 それからの何時間か、ヤンとジェシカの会話には昔の思い出話ばかりがのぼった。
 デリバリーで頼んだポットの紅茶が空になると、ジェシカはコーヒーを淹れに立ち上がった。
「ごめんなさいね、コーヒーしかなくて」
 食事の時から同じ謝罪を何度も繰り返すジェシカに、クッションに胡坐をかいてくつろいでいたヤンは苦笑しながら反論した。
「僕だって飲めないってわけじゃないんだよ」
「でも嫌いなんでしょう? ジャン=ロベールがコーヒーを飲んでるとあなたはいつもわざと横で紅茶を飲んでたわ」
「あいつがからかったからだよ」
「そうね、彼もわざとやってたわね」
 ダイニングテーブルからコーヒーシュガーのポットを降ろしてきて、ジェシカは彼女の席に戻りかけて思いついたように窓のブラインドを下ろしに行った。隣の区画の高いビルに反射した太陽がいつのまにか部屋の奥まで白く差し込んでいたことに、ヤンはその時になって気づいた。背後の掛時計を振り返るともういい時間が経っていた。戻ってきたジェシカがクッションに身を落ち着けると白いカップから立ちのぼる湯気が揺れ、深く煮出した液体の香ばしさが漂った。
「おいしい」
「そう、よかった」
 一日じゅう率先して新しい話題を提供していたジェシカもその役目に疲れはじめたようだった。ヤンは今日初めて沸き上がってきた居心地の悪さを落ち着かせるように、黙々とほろ苦い液体を口に運んだ。ジェシカが飲みかけのカップを置き、さも今しがた思い出したように呟いた。
「私たちさっきからジャン=ロベールの話ばかりね」
 二人とも沈黙した。ヤンは卒業してからのジェシカの日常を何も知らないことに今更ながら思い至った。亡友の話以外に共通の話題はただの一つも見当たらなかった。
「あいつは君に仕事の話をしたかい」
「いいえ、しなかったわ。人間関係の話は別だけど。仕事の中身の話はしなかったわ」
「だろうね。僕もあいつも似たようなものさ。もちろん機密保持ってのもあるけど、そもそも、他人に話す価値もないことばかりさ。加えて僕の場合は人間関係の話をすれば悪口ばかりになること必定だしね。その点はあいつは恵まれてただろうな」
「そうでもないわよ。私、もしかしたら何人かの弱みを握ってるかもしれないわ」
「へえ、そりゃ穏やかじゃないね。あいつがやりこめそうな奴と言ったら・・・」
 ヤンは適当に誤魔化した。本当に、彼がいなければ二人は会話もできない。
「ピアノは・・・あまり弾かないんだっけ」
 それも食事をしながら一度は終わりにした話題だった。
「夜遅くなると、どうしても遠慮があるし。休みの日にたまに触るくらいよ。もう誰かに聞かせられる腕じゃなくなってしまったわ」
 相手からはヤンの二言目が必要ない答えが返ってきた。
「音楽でもつけましょうか」
 ジェシカはソリビジョンの操作盤を何かするために立ち上がった。
「住む前はどうでもいいと思っていたんだけど、このアパートメント、ほとんどのケーブルチャンネルが入っているのよ。初めはセキュリティが目的だったけど、議員宿舎より良かったと思って。寝る前に時々聞いたりするの」
 言いながら二、三秒毎にジェシカはチャンネルを変えていく。人の話し声が入っていたり、賑やかなエレキギターの曲が流れたりする。ゆったりした音楽のところでジェシカはチャンネルを止めると、ボリュームを絞ってヤンの隣へ戻ってきた。
「ピアノの曲じゃないんだね」
「ピアノは駄目なのよ。そっちに聞き入ってしまうから」
 少し躊躇ったあと、ヤンは尋ねた。
「ジャン=ロベールが亡くなったあと、先生を続けるつもりはなかったの」
 少し間があって、答えが返ってきた。
「本当は、最初から6月でやめる予定だったの。学校にもそのことは伝えてあったし。でももちろん、職を失うわけにはいかなかったわ、だから、彼の葬儀が済んでから、他の学校に移ってもいいから空きがないか相談したの。正直、教育界っていうのはコネで動いてるところで、私もそれまでかなり父の立場に助けられて就職できたのよ。だから教員を続けられないはずはなかったの。でも工面しても空きはないって断られた。半年も先のことなのにね。そして、近しい人を亡くしたんだから休養した方がいいと勧められた。善意にみせかけて、教育委員会は私に教師をやめさせたかった、というわけ」
 ジェシカはヤンの目を覗き見て、言った。
「慰霊祭で私があんなことをしたからよ」
 彼女は身に降りかかった火の粉を払っただけなのだ。だがそのために政治家にならなければ、彼女はそれまでどおりの生き方を続けることすらできなかった。
「私は、のんびりピアノなんか弾いていた頃の自分を恥じるわ」
「そんなことはない」
 ヤンは強く言った。
「君は子どもたちに音楽の楽しさを教えていた。僕たちも君のおかげでその喜びを知った。どうして恥じる必要があるものか」
「そう言ってもらえるのは嬉しいわ。でもあの頃の私は、自分にできることしかしていなかった。自分のためのことばかりで、他人の生に貢献することをしてこなかった」
「違うんだよ、そうじゃないんだ」
 ヤンにはジェシカが極端に走りすぎているように思えた。義務は能力の範囲内で要求されるべきものだ。度を越した自己犠牲の精神までが美徳に値するとは思えない。それに、高い自己犠牲を課す人間は往々にして、他者にもその水準が容易だと錯覚する。
「君は自分を犠牲にすれば世の中がうまくいくと思いたがっているように聞こえるよ。だけど君はさっき、自分の信念でやっている活動だと言ったばかりだろう」
 ジェシカは何も言わなかった。
「・・・すまない」
 ヤンは声を荒げたことを謝った。そして言いあぐねて、迂遠すぎる言葉を付け足した。
「・・・君は少し、仕事しすぎだよ」
 耐えがたいほどの時間が過ぎ、それからようやく、ジェシカが顔をゆっくりとヤンの方へ向けた。
「あなたが私に対して怒るの、初めてだわ」
「すまない」
「そうじゃなくて・・・こんな風に大声を出されたこと、一度もなかったって言いたかったの。気に障ったら悪いけど、あなたはいつも私と話す時には距離をおいていた、そんな気がするわ。薄い壁一枚、いつも間に挟んでいたみたいだった」
 ヤンは否定しなかった。ジェシカの唐突な指摘に反論する意志はまったく起きなかった。思い返せばすべて彼女の言う通りだった。その理由は、きっと今彼女が想像しているのとは正反対なのだが。
「責めてるわけじゃないのよ」
「・・・ああ。わかるよ。僕も、たとえばジャン=ロベールに対してと君に対してとでは違う態度を取っていたと思う」
 ジェシカの表情に明るさが戻ってきた。
「そうよ。あの頃は、私あなたとジャン=ロベールに焼きもちを焼いてたの。今だから言うけど、あなたたちの間に入っていけない何かがあって、どこかで置いていかれた気がしていたわ。私が入っていくと二人の時には在ったものが壊れてしまって、私は外から見ていることしか許されなかった」
「君がうらやましがるほどのものはなかったよ」
「そうかもしれないわね。でもその時はそう感じたの。・・・あの頃は友情の方が価値あるものに思えた」
 ヤンはジェシカの最後の独り言のような呟きまで聞き取っていた。
 流れていた音楽が止まって、数秒の間、室内の空気が落ちつかなげにざわめいた。乱された調和をとりなすように、新しい曲が始まった。オーケストラがゆったりと前奏をかなで、女性の低い声がヤンにも聞き分けられる言語の歌詞を歌い出した。
 絞った音量に、ヴォーカルの声も低く擦れていたが、ヤンにははっきりと聞き取れた。ヤンは視線を上げた。ジェシカもヤンを見ていた。
「おぼえてる? この曲」
「ああ、おぼえてるよ」
 ヤンの答えにジェシカは花がほころぶような笑顔を浮かべた。二人は同時に次の言葉を続けた。
「私たちが知り合った時に流れていた――」
 ヤンの言葉はジェシカを遮る形になった。
「君とジャン=ロベールが踊った曲だ」
 親友もヤンも式用の礼装に身を包んでいた。音楽学校の学生たちは思い思いのドレスをまとっていた。先に権利を得たのはヤンで、なけなしの勇気を奮い立たせて声をかけたはいいが、曲が終わった時には何を会話したかさえ憶えていなかった。自分は足を踏んで何度も「ごめん」と謝った以外の言葉を発しなかったような気がした。風のように横からあいつが彼女を攫っていった時、曲はスローなワルツに変わった。自分だってこれならもう少しましに踊れたのに――恨めしい気持ちをヤンは楽団の奏でるワルツに向けて、心中で毒づいた。二人は誰が見ても絵になっていた。ジャン=ロベールは白い礼装が背の高いがっしりした肩幅に映えていて――彼女は春の花のようだった。ターンするたびに淡い黄色のドレスが軽やかにひるがえり、無邪気なほほえみが彼の肩越しにヤンの前を横切って行った。

 I remenber the night and the Tennessee Waltz,
 Now I know just how much I have lost――


 歌声がヤンの意識を現実に引き戻した。視線を合わせたヤンは、目を見開いた。ジェシカの目には涙が溢れかけていた。
「なんでもないのよ」
 ジェシカは体ごとヤンから顔を背け、手で覆った。だがその声も滲んでいた。
「ジェシカ」
「ごめんなさい」
 ヤンは横を向いているジェシカの正面に回りこんで、顔を覆っている手を引き剥がした。
「僕が悪かった」
「違うの、そうじゃないのよ」
 同時に声を発して、二人は互いを見た。ジェシカは泣きぬれたままの顔でヤンを見上げていた。その目は何かを恐れているようで、それを覗き込んだ一瞬に緊張が走った。二人の間に、僅かな身じろぎにさえ崩れかねない、脆い均衡が生まれた。
「・・・あなたの前で、泣いてはいけなかったのに」
 引き込めようとするジェシカの手をヤンは握りとどめた。
「・・・かまわないよ、泣いてくれて」
「ずるい人間だわ、私」
 脱力したジェシカの上体をヤンはそっと引き寄せ、寄りかからせるようにして抱いた。
 つつましやかに揺れるその黄色い花を見たとき、ヤンは彼女そのものだと思った。卒業式の日、ジェシカが二人に一束ずつ贈ってくれた花束。ヤンに渡されたのは、枝茎の先にほころびかけの黄色い蕾を連ねたしなやかな細身の花の束だった。
 この花はなんという花かと彼が尋ねると、フリージアというのだと教えられた。ヤンはその名前を呟きほどの声で繰り返した。
 君みたいだ、とは言えなかった。先に彼が言ってしまったからだ。
「ありがとう。この花、君みたいに綺麗だよ、ジェシカ」
 ジェシカは笑いながら少し顔を赤くした。彼の花束は淡い紫色をした、大輪のスイートピーだった。明るい青い彼の瞳に似合っていた。
 あれから十年近く経つのに、ヤンの中のジェシカはあの日のほころびかけた可憐な蕾のままだ。たとえ、現実には他の男のものであろうとも。
「あなたの優しさに、つけ込んでいるのに」
 肩口に顔を埋めて、彼女は呟いた。
「つけ込んでいるのは僕の方だ。君が独りなのにつけ込んで」
 ヤンは心を決め、彼女を抱く腕に力を込めた。後頭部から、ゆるく縮れた髪の先まで撫でるように梳く。ジェシカは指の動くままに任せていた。ヤンはさらに腕に力を込め、ジェシカに囁いた。
「君は僕に助けを求めてなんていない。ただ僕が、君を欲しているだけだ」



 アパートメントを送り出された時、ハイネセンの陽はすでに一日の終わりの入り口まで傾いていた。ヤンは狭い地上車の車内に閉じこもる気になれず、通りをそのままぶらついた。夕風はまだ冷たかった。小半時も歩けば人の群は数を増していった。ヤンは人混みを避けて、一筋入った小路に身を寄せた。
 いつしか、首都区の中心部にある緑地公園の一つの脇に出ていた。公園の入り口のフラワースタンドが、ちょうど仕舞仕度をしているところだった。ヤンは立ち止まってスタンドの中を覗いた。
「なにかございます?」
 女の方の店員が快活に声をかけてきた。
「フリージアは、ありませんか」
「フリージアはねえ、ないんですよ」
 女の花屋は残念そうに言った。
「あれは暖かいところの花ですんでね、ここだと今はまだ時期じゃないんですよ。温室栽培のなら、大きなお店に行けば間違いなくあるんですけどね、うちには置いてないんですよ」
 そうですか、とヤンは聞き流した。
「すいませんね」
「いえ、どうも」
 ヤンは歩き出した。不意に周囲が白く明かった。公園の街灯が一斉に点灯したのだった。まだ葉もつかない樹枝の隙間から、肌寒い光が闇を照らし出した。

 帰宅したヤンにユリアンは出立の予定を告げてきた。ヤンは彼とそこにいない副官に礼を言い、もう寝ると言いながら居間のソファにすわって放心していた。不意にユリアンの声が耳に入った。
「呼んだか?」
「いいえ・・・気づいていらっしゃらないんですか。ご自分で歌っていたの」
 ヤンは少年の顔を眺め、視線を戻して頭を抱え込んだ。
「ずいぶんとご機嫌なんですね。そんなに楽しかったんですか?」
 髪をかきむしるヤンに、少年の少しばかり皮肉めいた口調が降ってきた。
「ユリアン、ブランデーを一口くれないか。今夜はもう寝る、明日は早いんだろう」
「はいはい、ブランデーですね」
 それから暫くしてヤンの寝室へとやってきた少年は、室灯が落されているのを見てヤンが本当に疲れているのだと勘違いしたらしかった。
「提督、ここに置いておきますね」
 おやすみなさいと小さな声を残して少年は出て行った。ヤンの頭の中で、終わりのない三拍子はその夜ずっと鳴り続けていた。






CopyRight(c)prismenn in PRIS☆MITE−since May 2004−


【PRIS☆MITE】のprismenn様から、拙宅一周年のお祝いに頂戴いたしました。
奥行きというか空間というか・・・読み手が様々に思索し想像できる余白をたっぷりと含んだ素晴らしいこの作品に、拙いコメントは避けるべきだと感じました。なので少しだけ(^^;)
私はヤンが本当に恋していた相手はジェシカだったと思っています。ラップを亡くしたふたりが寄り添えなかった理由を、この作品が解き明かしてくれているような気がしました。それとヤンの告白、彼にしては上出来だ(笑)
prismennさん、いつもお世話になっているのは私の方ですのに、お忙しいなか心に響くこんな素敵な作品を本当にありがとうございました!


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