漆黒の世界から


 ふと目覚めた時、自分はまだ瞼を閉じているのかと思った。それほどに深い闇が部屋中を満たしている。ホテルにはお決まりの遮光カーテンの所為だと思い至り、それから、アラームの助けもなく目覚めたのは、いつもと違った環境に緊張なり興奮なりして熟睡できなかったのだろうかと考える。
 いつもと違う環境―――?
宇宙を彷徨いながら育ち、今もひと所に腰を落ち着ける間も無い自分にとって、いったい何処が『いつもの場所』なのだろう?と、ヤンは僅かに頬を歪めた。
 つまらない思考遊びの所為で頭が冴えてしまい、ついでのように咽喉の渇きを思い出した。手探りでフットライトを灯し、ぼやけた暗い光を頼りに起き上がる。腕時計を翳して見れば、時刻は午前4時。よくもこんな時間に目が覚めたものだ。隣のベッドには、この旅に誘ってくれた後輩がいる。息を殺し気配を伺ってみたが、まだ深い眠りに身を委ねている様子だった。そろそろと歩みを進め、極力静かに冷蔵庫のドアを開け、ミネラルウォーターのボトルを取り出す。バルコニーに出ようと思い立ったのは、彼の眠りを妨げないようにとの思いと、それ以上に夜の底を絶え間なく流れる音に惹かれたからかも知れなかった。


 カーテンをくぐり、ガラス戸を開いた途端、低い唸りが地響きのように身体を震わせた。鬩ぎあい砂を洗う圧倒的な波の音が闇の中から迫って来る。目覚める前から意識の底でこの音を捉えていたような気がする。耳慣れない音の正体を、降り続く豪雨やハイウェイを流れる車のようだと、自分の知るそれらに置き換えて。
 陽射しの下で蒼と碧に煌き、視界一杯に広がっていた心解き放たれるようなパノラマは、漆黒の闇に塗りつぶされていた。光を孕み青さを残した都会の夜空とはまるで違う。むしろ自分のよく知るもうひとつの宙、無限に続く真空の闇によく似ていると思った。
 黒ビロードに針先で無数の孔を穿ったように、月のない夜空には星が瞬いている。視線を下方に滑らせると、いつしかそのまま闇に溶けていく。そこに横たわっている筈の海も、空と海との境目も、懸命に目を凝らしても見出せなかった。その闇の中から突然目の前に現われる光の帯。波打ち際で砕け散る波頭が一瞬白く浮かび上がる様は、幻想的な美しさを越えて恐怖さえ呼び覚ます。

 宇宙の彼方から咆哮を上げて迫り来る波。押し寄せる無数の星の欠片。
 闇に散り、星となった者たちの欠片が、繰り返し打ち寄せてくる。
 無節操に増え続け砕け散る、終わらない螺旋。回り続ける車輪。
 重力が消え、視界が揺らぐ。
 うねりに引き寄せられ、呑みこまれる。
 この漆黒の世界こそが『いつもの場所』だと言わんばかりに。

 抗うように固く目を瞑り、手すりを懸命に掴んだその時、バルコニーのライトがふっと灯った。暗闇が遠退き、星明りが光に溶ける。

「風邪をひきますよ?」

 着せ掛けられたバスローブの重み。肩を掠めた手の温もり。
 呪縛が解かれ自分を取り巻いていた目に見えない空間が、すぅっと収束して消えた。

「アッテンボロー……」
「眠れなかったんですか?」
「あ……いや。目が覚めてしまったんだ」
「先輩にしちゃあ珍しいですね」
「そうだな………あ、悪い。起こしてしまったか?」
「いえ……多分この音の所為だと。凄いっすね、この眺めといい波の音といい」

 アッテンボローはヤンの隣に並んで手すりに凭れかかった。ヤンが部屋を出て行く時に目を覚ましていたが、彼にとって必要なのだろう時間を妨げたくはなかった。学生時代からのヤンを知る者のひとりとして、憧れと敬愛を向けてきた者として、彼の変化は自分なりに分かっているつもりだった。出征から戻るたび表情に刻まれていく苦悩と諦観。それは、彼が望まぬ二つ名を与えられた頃から、更に加速して深くなったと感じる。出征後に与えられる休暇を利用して半ば強引にこの旅行に誘ったのも、昨今頓に騒がしくなってきた周囲から、少しの間でも彼を遠ざけたかったからだ。
 今の自分に出来ることはさして多くない。しかも些細なことばかりだ。それでもいつかは、ヤンの下で手足となって働き、彼の望みを実現する手助けが出来るようになりたい。彼を補佐することが叶うなら、それこそが本望だと思う。
 暗闇の遥か彼方に横たわる見えない水平線を目指すように、アッテンボローはじっと目を凝らした。
 
 手付かずの自然と乾いた空気は、昼と夜の思いがけない温度差をもたらす。ヤンはバスローブを着せ掛けられて初めて風が冷たいと感じた。それに、アッテンボローが起きてきた物音にさえ気付かなかった。感覚が麻痺していたのだと―――ゆるゆるとそれを取り戻してようやく気付く。
 長い戦いの中で自分たちは、戦うことにも沢山の犠牲を払うことにも麻痺してしまったのではないかと思う。目前の事象だけに意識を奪われ、闇雲に突き進む。誰もが近視眼になっているように思えてならない。気付くべきは、置かれた状況が異常なのだということだ。そうして当たり前の感覚を取り戻せば――何が大切で何を守るべきなのかを心に刻めば――戦いを終わらせる道は誰の目にも見えてくるに違いない。
 自分はその為に望まぬ仕事を続けていく。だが、圧倒的な闇を目の当たりにすると、朝の到来さえ不確かなものに思えてくるのだった。


「夜明けは……来るだろうか?」

 無意識に零れ落ちた感のある問い掛け。頼りない声で独り言のように発せられたそれに、アッテンボローは一呼吸置いてからきっぱりと答えた。

「来ますよ。必ず」

 (あなたが居るから。今はまだ思い通りに行かなくても、きっとあなたは未来を指し示す存在になる。)

「随分自信たっぷりに言うんだな」
「俺が自信家なのは、よーくご存知でしょう?」
「ああ…。思い切りが良いのも好戦的なのも、反骨精神の塊りだってことも、知ってる」
「それ、褒めてくれてるんスか?それとも貶してる?」
「さあ?どっちだろうね」

 俯いて、ふふっと吐息を漏らすようにヤンが笑う。肩で大袈裟に溜息を吐きながら、アッテンボローはもう一度景色に目を向け、途端に活力に満ちた声を上げた。

「先輩、ほら!」

 促されて顔を上げた遥か彼方に、薄っすらと水平線が見える。アッテンボローは室内にとって返すとバルコニーの灯りを消して再び戻ってきた。


 闇は薄れていた。目が慣れるにつれて薄明が広がる。深い群青色の空と鈍色に沈む海の境目が見て取れた。明け始めた世界は長い夜に退屈していたかのように、見る見るうちに明るさを増していく。星が瞬く間に光を失い、早朝独特の靄に包まれたような淡いグレーの世界が訪れる。水平線が水色とラベンダーの帯になり、やがて淡紅色に染まる。太陽は未だ姿を見せないものの確実に昇りつつあると、劇的に変化していく空と海が物語っていた。
 木陰からは名も知らぬ鳥達の鳴き交わす声が聞こえ、目の前をカモメが伸びやかに横切る。霞んでいた景色が鮮やかさを増し、そのもの本来の姿を取り戻す。
 木々は緑に、砂浜は象牙色に、空は蒼く、そして海は―――淡く穏やかな碧に。

「今日もいい天気になりそうですね」
「良過ぎるさ。毎日暑くてかなわない」
「先輩って…ほんっとに贅沢っすねー」

 からかうような口調にヤンは憮然として後輩を見遣る。悪びれない様子で視線を受け止めるアッテンボローの瞳は、朝の海と同じ淡い碧色を湛えて、穏やかに微笑んでいた。



End
2005/6/25
2005/7/9 UP

拙宅突発企画にご参加下さった皆さまへの御礼品のうちのひとつです。


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