彼岸の向こうに見える明日



「アッテンボロー提督、あと二時間ほどでハイネセン周回軌道に到達します」

 巡航艦の一室。この航海の間自分に与えられた部屋。
 オペレーターからの通信に「了解」と短く応えると、アッテンボローはこの狭苦しい空間で唯一開放感を与えてくれる肉視窓の傍に歩み寄った。
 青と緑と白に彩られた惑星が、小さな窓一杯に広がる。
出動し帰還するたびに目にした光景。緊張が解れていくにつれ湧き上がる喜びを、幾度感じたことだろう。およそ二年半ぶりに見る故郷の惑星は、緊迫した事態にむしろ高揚感すら覚えながら脱出したあの日と、少しも変わらないように見えた。
 長かった旅がもうすぐ終わる。そして、こんな風に宇宙を旅することも、恐らくはこれで最後。だが、胸を満たすのは安堵でも喜びでもなく―――アッテンボローは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。微かに感じる金属とオイルの匂い。慣れ親しんだそれが彼の鼻腔を掠めた。


 展望デッキに上って見ると、そこには結構な人数が詰め掛けていた。
 誰もがハイネセンを望む側に集まり窓に張り付いているものの、誰ひとり口を開く者はない。徐々に近付いてくる故郷をただじっと息を呑むように見つめていた。自動販売機で買ったコーヒーを手に、アッテンボローは彼らに背を向け反対側の窓に向かう。そこには紙コップの中の液体よりも黒く深い闇色の宇宙が広がっていた。

 ここで……文字通り悪戦苦闘してきたのだ。多くの同胞と語り合い、泣き、笑い、生死を共にした自分たちのフィールド。さすれば、今ではもう遥かに遠いあの人工の惑星こそが、生まれ育った故郷よりも心安らぐ場所だったのかも知れない。
 旅立ってしまった者たちの顔が次々に浮かんでは消える。そして、そこを「我が家」と呼んだ彼の人の笑顔が浮かんで―――闇の中に溶けていった。



「『彼岸』と言うんだそうですよ」

 思い出したのは、フェザーン最後の夜。
 ユリアン言うところの『盛大なお別れパーティー』が終わった後、ポプランとふたりホテルの部屋で交わした会話。

「何だ、それ?」
「あっちの世界のこと。俺達の住む迷いや苦しみのあるこの世が『此岸』、それに対して、悟りを啓いたもの、仏が住む理想世界であるあの世が『彼岸』。世界の西の果ての更に遥か彼方にあるんだとか。大昔の宗教にそんな教えがあったと、ムライのおっさんが話してたんです」
「へ? ムライ中将が!? おまえに!? 内容も然ることながら、おまえに小言以外の話をしたことの方が、俺はオドロキだね」
「俺だけじゃなくて他に何人か居ましたよ」
「なるほど、それなら分かる。で、その『彼岸』ってのは帝国人が言うところの死んだら誰もが行くヴァルハラみたいなものなのか?」
「さあ? ただ、生きることは魂の修行だそうで。悟りを啓くまでは何度でもこの世に生まれ変わるんだって話ですから……」
「望んで戦争ごっこをしてきた俺達は、全員生まれ変わり決定ってとこだな。争いや人殺しを是とする宗教なんて在り得ないだろうが?」
「………やっぱ、そうなるんですかねえ……」



 自由と孤独を選ぶことでこの時代に決別しようとしていたポプランが、あの夜、更に自分と飲みたがった訳。ムライに聞いたという古い宗教の話を持ち出した訳。それらの正確なところは分からない。だが、最後にもう一度、悼みたかったのではないだろうか?過去として簡単に切り捨てることなど出来ない、忘れることなど出来ようもない逝ってしまった者たちを。同じ想いを共有できる自分と共に。そして、信心している訳でもなく在り得ないことだとしても、願っていたに違いない。生命あるがゆえの苦悩から解き放たれて、彼らが『彼岸』とやらで永遠の安寧に包まれることを。
 常に無く真面目な口調と終始伏し目がちだった若葉色の瞳を、アッテンボローは思い出していた。


 『彼岸』に辿り着くまでに何度も生まれ変わるというのなら、この先の生で彼らとまた出逢うこともあるのだろうか?
 ならば、彼の人と……再び生を共にすることがあるかも知れない。
 自分が自分であったことの記憶を失い、彼が彼であったことの記憶を失っても、魂の一部が共鳴し、呼び合うようなことはあるのだろうか?そこがどんな時代、どんな場所かは知りようもないが、願わくば、平凡な人生が許される平和な世界であって欲しいと思う。誰よりも強くそれを望み続けた彼の人の為にも。
 いや、自分達は、まさにその世界の礎を築くために戦って来たのだ。そしてこれからも形は変われど、それを確固たるものにするために力を尽くして行く。目指すものは同じ、歩み続ける方向も変わりはしない。ただ共に行く者達の顔ぶれが、ひとつの時代が確かに終わったのだと、そう自分に告げていた。


 総員にシャトル移乗の準備を促す艦内放送が流れる。
 刻々と近付くハイネセンの姿を飽きもせず眺めていた者達も、潮が引くように次々と引き上げて行った。準備することなどさして多くはない。自分とてボストンバッグひとつに納まる程度の荷物を既に詰め終わっている。あとはベッドサイドのテーブルに置いている写真立てをそこに加え、シャトルまで出向いていくだけだ。
 誰も居なくなった展望デッキを、先程とは質の違う静けさが満たしていた。冷たくなったコーヒーを飲み干し紙コップを握りつぶしてゴミ箱に投げ込むと、アッテンボローはもう一度窓に向き直り、広がる宇宙に目を向けた。

 彼の人の瞳を思わせる、その深い色。
 ここから離れて行くことは、まるで彼の人にもう一度別れを告げるようだと―――不意に込み上げたおよそ自分らしくない感傷的な想いに、不覚にも目頭が熱くなった。

 何故今頃になって……!? あの日ですら、涙など零さなかったものを!

 押し止めるように唇を噛み締めるとアッテンボローはすっと背筋を伸ばし、それから音を立てて踵を合わせ端正な敬礼を施した。息を止めた胸の奥から突き上げるように熱風が巻き起こる。額に触れた指先がそれを受けて微かに震える。じわじわと漏れた呼気が小さな呻き声のような音色を奏でた。抗い難い衝動に肺が空になるほど大きく息を吐き出した途端、溢れ出した雫が頬を伝った。
 誰に対してか、何に対してか、謝罪の言葉が頭の中に浮かぶ。不甲斐ない自分を叱咤する言葉と掛け合いでもするように。
 声に出すつもりなど決してなかった言葉が、この一年半近く封印してきた言葉が、口をついて零れ落ちた。

「先輩……」

 歪んだ視界の向こうには、まるでその想いに応えるように漆黒の宇宙が広がり、彼を柔らかく包み込んでいた。



End
2005/6/1

2005年Y提督追悼。
【銀英伝物書きonly同盟】さまの企画に参加させていただいた作品です。


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