いつもの場所


 昼休みを告げるチャイムが鳴り終わらないうちに教室を飛び出した。並んだドアからぞろぞろと吐き出される候補生達をかわしながら食堂へと急ぐ。【廊下は静かに】と赤字で書かれた貼り紙が視界の隅に入ったけれど、見て見ぬ振りをするのもいつものことだ。
 俺にとって一日のうちで多分一番大切な仕事。先輩たちとランチを楽しむ掛け替えのない時間のために、あの窓際のテーブルを確保すること。駆け込んだ食堂で定食のカウンターに並びながら横目で確認したその場所には、晴れ渡った空から真夏を思わせるような陽射しが降り注いでいた。暑がりのヤン先輩には少し辛いかな?昨日は一日中雨が降って肌寒いぐらいだったのに、と思ったところで、ふっと視界が色を失うような感覚に囚われた。

 泣いているような空の下で行われた卒業式。
 先輩たちは―――昨日、この学校から旅立っていったのだった。


 その日は必ず来ると解っていながら、日常が意味を失う衝撃を思い浮かべてみなかった。あるいは、解っていながら故意に目を背けて来たのかも知れない。身体に染み付いた行動を条件反射のように繰り返してしまった自分には他にどうすればいいのか思いつかず、のろのろと足を向けたテーブルが今日はやけに白く見えた。
 この場所が確保できると、いつもささやかな達成感を感じていた。
 ナイフやフォークを3人分調え、入口に目を凝らし、先輩たちが来るのを心待ちにした。

『おっ、気が利くじゃないか』
『ご苦労さん、アッテンボロー』

 笑顔と共に向けられる言葉が擽ったくて。でも、どんなに嬉しかったことか。
 変わり映えのしないメニューは容易く時間を遡らせ、周囲のざわめきが遠退いていく耳に、思い出と言うには余りにも鮮やかな声が甦る。

『ヤン、野菜を残すな!?最近お肌が荒れてるぞ〜』
『おまえこそ食べ過ぎないようにな。腹回りがまた豊かになったぞ?』
『おまえ……人が気にしてることを! おい、アッテンボロー、笑うんじゃない!』
『……だって……他人が聞いたら、ちょっとアブナイですよ?今の会話』
『そりゃあ、俺たちは毎日夜を共にしている……そういう関係だからな』
『悪趣味だな、ラップ。 アッテンボロー、笑うか食うかどっちかにしないと窒息するぞ?』
『しっかしおまえ、ホントによく食うなぁ』
『先輩たちと違って育ち盛りですからね』
『若いって言いたいのか!?』
『だって実際に若いですもん!』

 大して美味くもない料理が、何故あんなにするすると腹に納まったのだろう。
 「砂を噛むような」とは、こういうことを言うのだろうか?味覚を失ったようにどれもこれも味気なく、胸が塞がれたように重苦しくて。弄ぶようにフォークで突きながら機械的に口に運び、半分ほど食べたところで手を動かす気力も萎えてしまった。持ち上げたトレーの上、湯気の消えたスープの水面で、場違いなほど明るい光が揺れて目に沁みた。


 鮮やかな緑の芝生に覆われた地面は、降り続いた雨の所為でまだ湿り気を帯びている。それゆえ誰からも避けられたのだろう大樹の根元は、まるで指定席を空けて待っていてくれたように思えた。幹に凭れて立ったまま紙コップのコーヒーを啜る。いつもの癖でブラックを買ったけれど、砂糖とミルク入りにすればよかったと後悔した。見上げた枝は濃い緑の葉をいっぱいに茂らせて初夏の陽射しを遮り、心地良い木陰を作っている。風に揺れた瞬間、差し込んだ木漏れ日に目を灼かれ、思わずきつく瞑った瞼の裏で白く陽光が踊る。

『んなもん悩むことないだろ? OKすればいいじゃないか?』
『けど……俺、その子のこと、なんとも思ってないんスよね』
『付き合ってみたら好きになるかも知れないだろうが』
『それって……なんか違うんじゃ……?』
『いや、違わない。 ヤン、ほら、起きろ!おまえもコイツに何か言ってやれよ』
『うっ……眩しい……返せよ、本』
『とにかく起きろ! アッテンボローの一大事なんだぞ?』
『いいか、アッテンボローよ。俺たちは卒業すれば明日をも知れない身だぞ?やることやっとかなきゃ死んでも死にきれん。人生は短い!青春はさらに短い!ってな』
『だからって……やたらにけしかけないでくださいよ〜』
『ラップの言うとおりだよ。気のすすまない事に時間を費やすほど、人生も青春も長くないだろうね。だからわたしは、好きなことをして過ごす時間を大切にしたい……と言う訳で、おやすみ〜』
『あぁ、もう!何て友達甲斐のないヤツなんだ!?』
『ラップ先輩、ありがとうございました。俺、やっぱり断ってきます!』
『おい、アッテンボロー?』
『俺も、今一番大事なものに時間を使いたいから!』

 女の子と付き合うことも、青春の只中にいる俺たちにはきっと大切なことだろうけれど。決して興味がない訳ではなかったけれど。自分の感情に正直になれば、他のすべては色褪せて見えた。昼休みも放課後も、そしてもちろん週末も。先輩たちと過ごせる時間は一秒だって削りたくなかった。
 大切な時間、楽しい時間が過ぎるのは、本当になんと早いのだろう。どんなに望んでも願っても、もうあの日々は戻ってこない。午後の始まりを告げる予鈴が鳴って候補生達が校舎の中に引き上げていく。その流れについて歩きながら、いつまでも口内に残る苦味に顔を顰めた。



 一日の授業が終わり、独特の開放感に包まれる教室。話し声も動き回る靴音も、どこか軽薄さを伴ってソワソワと落ち着かない。それに今更のように気付いて、また居た堪れない気持ちになった。掃除当番にしろクラス委員の仕事にしろ、とにかく早く片付けて一刻も早く先輩たちと合流したいと、いつもそればかりを考えていた。
 そう……何時だって心は此処になかった。


 飴色に艶を放つ重厚な木の扉を開くと、古びた紙独特の、すえたような埃っぽいような匂いが鼻腔を満たす。天井まで届く書架の林を抜けた先、奥まった一画の閲覧机はヤン先輩お気に入りの場所だった。時の流れから取り残されたような空間で自由に自然に数多の書物と対話し、誰よりも此処に溶け込んで見えた先輩。

『先輩、隣に座っていいっすか?』
『ん?ああ、アッテンボロー。珍しいね、おまえが有害図書以外の本を読むなんて』
『やだなぁ。俺だって課題ぐらいは真面目にやりますよ…って、実は難航してるんでヒント探しっす』
『どれ?……ああ、これか。うん、こっちの本がいいよ。解説が丁寧だし、キチンと理論立てて書いてある』
『へぇ〜、流石はヤン先輩ですねー』
『はは……お世辞はいいから。ほら、貸してごらん。えっと、確かこの辺……うん、ここから………ここまで。しっかり読んで押さえておくといい。参考になるから』
『ありがとうございます。助かりました』
『なーに、恩返しを期待させてもらうまでさ』
『実技試験を代わりに受けろ、とか言われても無理っすよ?』
『おまえ……可愛くないね。教えてやって損した』

 いつもの席に座り、その本のページを捲る。随分前のことなのに、先輩が教えてくれた箇所は難なく見つかった。まるでアンダーラインでも引いたように目に飛び込んできた文章を指でなぞり、あの日同じように文字を辿った先輩の指先を思い出す。夕陽を浴びて本のページ同様オレンジ色に染まり、穏やかな古い絵画のようで。いつまでも眺めていたい光景だった。
 閉館ギリギリまで粘り、連れ立って席を立つ先輩の手は、必ず何冊かの分厚い本を抱えていた。夕食時間を待ちかねたように食堂に誘うのは、いつもラップ先輩と俺。寮に戻ってもう少し続きを読みたいと主張するヤン先輩は、多数決で負けて渋々ついて来たものだった。


 初夏の遅い夕暮れがようやく落ちかかるグラウンドを横切り、食堂に向かう候補生たちに逆らって渡り廊下を歩く。いつもより軽い昼食だったにも関わらず、空腹感はなかった。何処に行っても、もう先輩たちの姿を目にすることなど出来ない。それを確かめるほどに息苦しくなると解っているのに。そこ彼処に残された眩しい日々の残像を追い求めてしまう。
 誰も居なくなった寮棟は深い眠りの中に沈み、反響する俺の足音にも目覚める気配はなかった。4階の先輩たちの部屋まで階段を昇りながら、息が切れ足は重く、軽い眩暈さえ覚える。この距離を苦痛に感じたことなど一度もなかったのに。逸る心のままに駆け上がり、その先にはいつだって飛びっきりの時間が待っていたのに。

『先輩、また泊まってもいいっすか?』
『飲む前から酔いつぶれる準備かい?』
『だってー、俺だけ途中で抜けるの、つまんないしー』
『しょーがねぇなぁ……ヤン、いつものヤツだ。ベッドパッド剥ぐぞ。 アッテンボロー!ボサッと見てないでさっさと床に敷け!』
『アイアイサー♪』

 小遣いを出し合ってこっそり仕入れてきた安い酒を酌み交わし、飽きもせずに語り合った。無理矢理帰省させられた腹いせに、親父の書斎から高級なウイスキーをくすねて来たこともあった。青くなって絶句した先輩たちもやがて開き直って一緒に舌鼓を打ち、最後にはすっかり上機嫌で。酒の味云々ではなく秘密を共有する子供さながらの行為が、何よりも俺たちを酔わせたのだと思う。

『俺、真ん中〜♪』
『おまえ……自分の寝相の悪さを自覚してるか?』
『まったくだ。これじゃあ俺たちふたりとも犠牲者じゃないか』
『公平でいいんじゃないっすか?』
『バカヤロ。ヘンな理屈こねるな!』
『仕方がないね。川の字は子供が真ん中と相場が決まってるから』
『ダスティく〜ん、ちゃーんとお腹に毛布をかけて、いい子で寝るんでちゅよ〜』
『ひっでーっ!そこまで言うからには……ラップ先輩、覚悟は出来てますよね?』
『あ…こらっ、抱きつくんじゃないっ!ガキみたいな真似はやめろ〜〜〜!!』

 固く冷たい床の寝心地が苦にならなかったのは、多分酒に酔った所為じゃない。俺ひとりを床に寝かせれば済むことなのに、寝具が足りないから仕方がないんだと―――尤もらしいことを言いながら、先輩たちはいつも付き合ってくれた。灯りを消すと急に酔いを感じて、街灯や車のライトが映し出す樹木の影が、天井でふわふわと回りながら揺れた。俺を挟んでぽつりぽつりと交わされる先輩たちの言葉は、穏やかな抑揚で眠りに誘う子守唄のように心地良かった。
 無限に続けばいいとその度に望み、望む都度、胸を過ぎった想い。

『先輩たちが卒業したら……俺、どうしよう。きっと、すっげー寂しい……』

 暗がりで顔は見えなかったはずだけど、随分情けない声だったかも知れない。

『おやぁ? 今夜は珍しく泣き上戸か?』
『馬鹿だなぁ…。逢おうと思えば、いつだって逢えるだろう?』
『遊びに来いよ。特別に彼女の手料理を食わせてやるから』
『え……?もうそこまで話が進んでるんスか?』
『…………願望だ』
『……ラップ先輩、それ実現しなかったらカッコ悪いっすよ?』
『う・る・さ・い』
『わたしも大歓迎さ。いつでもおいで。ただし、労働力として、な?』
『うわ〜〜、それって涙がでるほどありがたいお誘い〜』

 ネームプレートが外されたドア。
 恐る恐る触れたドアノブは、どきりとするほど冷たくて―――鍵が掛かっていた。
 この先には、もうおまえの居場所はない、と言われているような気がした。
 造り付けの家具だけが取り残された部屋は、無個性で何の意味も無い空間に変わっているのだろう。俺を包み込んでくれた優しい空気も先輩たちが4年の歳月を過ごした痕跡も、何もかもすっかり消え失せて。

 鼻の奥が、つん、と痛んだ。
 
(…先輩………先輩っ……!)

 声が聴きたい。逢いたくて堪らない。

『遊びに来いよ』
『大歓迎さ。いつでもおいで』

 呼びかけた声に答えるように、あの日の言葉が甦る。
 考えるよりも先に、廊下を走り出していた。
 電話しよう。 行ってもいいですか、と尋ねてみよう。
 昨日の今日なのにと呆れられても、子供みたいだと笑われても構わない。
 失くしたと思ったものは、時を経て遷り変わっただけ。きっと今も在る。そして多分、これからも無くならない。 先輩たちと共に過ごす、その時、その場所が――――――。


「先輩?アッテンボローです。あ、あの……週末、行ってもいいですか?」

「ええ……ええ、もちろん! 引越し荷物の片付けを手伝いますから!」



End
2005/7/26


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